Noism1『Liebestod−愛の死』を観て(埼玉2017.6.3)

振り返ってみると、Noismを観ることを避けてきていたと思う。何度か連れ合いに誘われていたが、大概のステージを見たがる私にしては、珍しく、Noismは行かない、と言って来ていた。Noismと言えば、日本で唯一の公的舞踊集団であり、すべてを舞踊に捧げる集団であると聞き及んでいたので、非常に自己抑制の厳しい世界を見せつけられて、ダメージを受けまくりそうな気がしたからだ。

だが、今回、新作『Libestod』に対する金森穣の想いを読んで、これは、見てみたいと思った。

音楽は、その人の好みのものだと、もうそれだけで、心が歓喜に動揺する。逆に、そうでないと、「ふーん」という感じになる。ワーグナーが好みの範疇でない私が、「こんなに美しい曲があるのか!」と感動したという金森の作品を、どう受け止めるのか、というのも今回の興味の一つであった。

公演で配布された挨拶に、金森の言葉があった。

『(前略)ある音楽が私の魂を鷲掴みにし、この身を引き裂くほどの感動に打ち震えること。なぜそれほど感動するのか。振付家である私にとってその答えを知る術は、その感動を生み出す〝名付け得ぬ意志”に身を委ねる、まるで己が純然たる触媒と化したかのように振付をすることしかありません。そうして生み出された本作は、私という人間の魂の所在を開示するとともに、私にとって舞踊とは何か、踊るとはいかなる行為なのかを、顕在化させることとなるでしょう。

本作粉が皆様にとって〝も”、この困難な時代をより切実に生きていくための、魂の糧となることを願っています。』

大舞台の上から下までの黄金色の幕を背景に、美しい男女が現れる。歓喜の女(井関佐和子)と末期の男(吉崎裕哉)だ。ISSEY MIYAKEの宮前義之の白い衣装をまとった二人は、一般的な神話を彷彿とするようでもあり、金森の25年間育んできた「舞踊」という神話の遣いのようでもあり、生まれる前の無垢な魂のようにも見える。

音楽とは愛、愛とは生きることであり、歓びと駆け引きと、慈しみが、井関の放物線を描く四肢から湧き上がる。それを受けとめ、天空に放つ吉崎は、「トリスタンとイゾルデ」の曲を聴き、打ち震える金森の感動と、創造への飛翔の姿と映った。男と女による愛と、音楽と人による愛が、交錯し、やがて、音楽の終わりのように、男は末期を迎え、、女は、記憶をなぞり、微笑み、また記憶をなぞり、もう、この手に、あの愛の実態がないことを思い知る。

その慟哭と喪失。

だが、井関の描き出すところの、金森の音楽と舞踊への愛は、世界を引きちぎってでも、感動を求めようとする。それが、あの黄金の幕を叩き、叩き、世界を揺らし、それでも戻らなけらば、一気に落とす、という表現なのだと思う。それは、あまたの神話にある、死後の世界に愛する人を探しに行く姿ともだぶった。

黄金の幕が、照明によって、幾重にも表情を変える演出について、アフタートークで金森は、「心のままに表現する方法は、今までの蓄積で持っているので」と語った。調べると、彼は、若い頃から演出時に、照明デザインも手掛けているのだ。納得の見事さだった。金色こそが、彼のこの曲への輝きの想いなのだろうし、それが、美しい旋律とともに揺れるのが、心のひだであり、現実と想像の間の幕であり、生と死、有と無の境なのかもしれない。

落ちた幕の中で、恋人たちは再び廻り合い、甘い蜜のような金色の悠久に溶けていく。

『イゾルデの愛の死』」のアリアの世界が、そこには具現されていたと言えるだろう。オペラの歌詞のまま「Nol vedet?」(みなさんは見ているの?)と訊かれたら、見えているよ、と、叫ばずにはいられない。

私の『生きている心』をダイレクトに刺激する、まさに輝く金色の、美しい時間であった。

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SPAC「アンティゴネ」

演劇とは、疾走する時代より、速く走らなければならない芸術だ。

定められた舞台の上、決まった時間内、繰り返される台詞。役者たちは夜毎、生を受け、死に至る。その、ひりつくような凝縮感は、炭素を圧縮してダイヤモンドを創るようなものかもしれない。いわゆる錬金術。

どれだけの演出家という名の魔法使いが、演劇という舞台で錬金術の成功を夢見、俳優たちや制作とともにそれを練り上げているのだろう。

SPACの「アンティゴネ」は、ギリシア古典悲劇というテキストをもって、私利私欲と闘いによる憎しみの蔓延するこの時代に、『なにかの光』を必死になって伝えようとしてくれた。

下品に落ちた政治や、美しさのかけらもない戦争。

連綿と続いてきた『人間の歴史』が、愚かさの繰り返しに終始しないよう、死者の魂にも寄り添い、言葉の魂を謳い寿ぐ。

もう、罵声も呪いも聞きたくはない。この狭い地球に、それらはすでに飽和しきっている。

自分は弱いのです、と姉アンティゴネに訴えるイスメーネー。それは、大衆の心理だ。美しきアンティゴネは冷たく言い放つ。では、結構。私一人で弔います。

ああ、私にはそう言えるだろうか?きっと言えないだろう。そう思う時、あの夜の、石の上からの美加理の眼が、文字通り私の心を射し貫く。美加理は美加理であり、アンティゴネだ。ギリシアの昔から、今この世までに、お前は全く、学んでいないのか、と私を責めていた。その時、私はイスメーネーというよりは、クレオーンに近かった。自分自身に言訳をし、ほかの手段もあるのに、気づかない愚か者だ。

SPACにこの国はついていけていない。世界は見つめているのに。

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おみやげ参道ORAHOと信州くらうど!

長野駅ビルMIDORIの2階には、おみやげ参道ORAHOがある。

http://www.eki-midori.com/nagano/guide/2f/  このフロアガイドを見ると解るように、有名どころのおみやげはここでそろう。善光寺近辺から運ばなくても、OKなのだ。歩き中は、身軽なまま、ショップを覗いたり、軽く食べ歩き。そしてここでおみやげかったら、ヤマトで送ることも可能!なんと、旅先の緩んだ財布の紐に拍車をかけるシステムであることよ!さすがは長野だ!

で、そこにあるのが、「信州の酒蔵とワイナリーを巡り集めた日本酒とワイン、それらに合う酒の肴が勢ぞろい。お酒の立ち飲みコーナーやカフェも設置しています。」と銘打った、『信州くらうど』」だ。一見、酒に弱い人には楽しめないスペースかと思われるが、ここには、長門牧場のチーズや、鹿肉馬肉ジャーキー、そして、甘酒ソフトクリームがある!

道でも甘酒ソフト売ってて、暑いし食べたかったけど、我慢してよかった!と思える、確かな甘酒味。アルコール分は0なれど、大吟醸酒粕使用、とのこと。発酵の甘みが濃厚に、ソフトクリームと相まって・・・、( *´艸`)

しかも、アイスクリームにコーヒーが欲しくなる私におあつらえの、フロート化、あり!

暑くて疲れてすべてがいやになりそうだった私に、染み入るソフトクリーム。やっと落ち着いてきょろきょろすると、なんと、後ろの信州ハム屋さんは、ホットドッグの蔭?でソフトクリームも売ってて、それがなんと、長門牧場のではないかー!!全然、前面に出してないなんて、もったいない。私は諏訪湖畔のくらすわでは、必ずアフォガートを食べるほど、長門牧場ソフトクリームが好きだ。

暑さで頭もやられて、悲しさから嬉しさへの感情の飛翔が、私に呟かせた。

「甘酒ソフトと長門牧場ソフトがあるなんて・・・。ここって、天国だね♪」

自分の天国度のハードルの低さと子供っぽさに、数時間後、煩悶することも知らず、満面の笑みを浮かべる、私であった。そして、食べると、天国はなくなってしまうのだった。さみしい。

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